メモ 3

 まだ主の目覚めない屋敷で気まぐれに行われる、ピアノのレッスン。
 講師はR・ドロシー・ウェインライト、生徒は成歩堂龍一


「この譜面は、こう弾くの」
 右隣に座ったドロシーが弾いてみせると、成歩堂は1オクターヴ下で繰り返す。
「ここからつなげて弾くわ」
 ドロシーがさらに長いフレーズを弾いてみせる。成歩堂は一呼吸置いてから1オクターヴ下で同じフレーズを弾く。
「さっきより良くなったと思うわ」
 ドロシーの言葉に、成歩堂は嬉しそうに笑う。
「ありがとう。ドロシーちゃんの教え方、とてもわかりやすいからね」
「あまり人に教えた事がないから、わからないわ」
「とても上手いと思うよ。じゃあ、今日教えてもらったところを弾いてみるから、聞いてもらえるかい」
「わかったわ」
 ドロシーが立ち上がって椅子を譲り、成歩堂は中央に座り直す。
「少し、ゆっくりやるよ」
「ええ」
 おずおずと譜面を確認しながら、成歩堂はゆったりとワルツを演奏する。ドロシーはその横顔をじっと見つめながら、遅めの朝に妙になじむ成歩堂のワルツに耳を傾ける。
「おっと」
「大丈夫よ。続けてちょうだい」
 譜面を見えやすいように直してやりながら、ドロシー。
 たどたどしさは残るものの、成歩堂は楽しそうに涼やかな音色を奏でていく。
「もっと、上手くなったら…、誰かに聞かせてあげたいところなんだけど」
「誰かって、誰」
「そうだね。誰かなあ。家族とか、友達とか。…恋人、はいないんじゃないかな」
「その人達はナルホドーのピアノを聞いたら喜ぶの」
「うーん…喜んでくれたらいいけどね。興味が無い人には、退屈かも知れないね」
「ナルホドーのピアノはとても興味深いと思うわ」
「…一応ありがとう、ドロシーちゃん」
 最後の音を弾き終えると、ドロシーは拍手で健闘を称えてくれる。成歩堂が椅子から立ち上がると、代わりにドロシーがそこに腰を下ろした。
 そして、成歩堂が演奏したのと同じテンポで、同じ曲を静かに弾き始めた。
 さっきまで自分が弾いていた曲とはまったく違う曲のように聞こえるそれを、成歩堂がのんびり楽しんでいると。
「ナルホドーの記憶は戻らないの」
 唐突に、ドロシーがそんなことを尋ねてきた。
「え?」
「何か思い出したりしないの」
「…ああ、そうだね。今のところは何も思い出せないな」
「そう」
 素っ気ない返事。
(何か、僕に聞きたい事があるのかな)
 なんとはなしに察して、しばらくドロシーの演奏に意識を戻す。
 しばらくそうしていると、
「ねえ、ナルホドー」
 再び、ドロシーが成歩堂を呼ぶ。
「なんだい」
「少しおかしな事を聞いてもいいかしら」
「うん。いいよ」
「ナルホドーは、私と初めて会った時に、恋に落ちたかしら」
(…へ?)
 ゆったりとピアノの音色が流れる中、ドロシーがじっとこちらを見上げてくる。
「あの…」
「…………」
(と、とにかく考えてみよう。僕が…ええと、ドロシーちゃんに恋に落ちてるのかどうか…)
 成歩堂はしばらく自問して、やがて落ち着いて答えを導き出した。
「僕はドロシーちゃんに恋してないと思うよ。たぶん」
 ドロシーは成歩堂の答えに、
「そう」
 と素っ気ない。
 それはアンドロイドである彼女の幼さによるものだと、成歩堂は理解している。
「ねえ、ドロシーちゃん。どうしてそんな事を聞いたのか、聞いていいかい」
「以前、ロジャーの依頼人に40年前のあの日に記憶を失ってしまった人がいたの。その人が記憶を失った時、目の前に記憶の無い誰かがいて、2人はその時恋に落ちたと言っていたわ」
「ふうん。ロマンチックな話だね」
「ロマンチックなのかしら」
「…まあ、僕にはピンと来ないけど。でも、何かの物語みたいだね。ドロシーちゃんはその話が気に入ったのかい」
「私はアンドロイドだから、恋に落ちるという事がどういうことかわからないわ」
「あはは。僕も恋に落ちた事が無いから良くわからないよ」
「そう」
 どこかしら残念そうな相づちに、成歩堂は少し考えてから。
「ドロシーちゃんが僕に声をかけてくれた時、恋に落ちてはいないと思うんだけど。…でも、良い友達になれそうだと思ったよ」
「…それは、どうしてかしら」
 常にそうであるように、ドロシーは真っ直ぐ成歩堂を見つめて尋ねた。
(なんだろう。懐かしいなあ…)
 こんな風に自分を真っ直ぐ見つめてくる友人が、かつて自分にもいたのかもしれない。
「さあ、なんでだろう。僕にも良くわからないんだけどね。ひょっとすると、僕の思い出せない過去にドロシーちゃんみたいな友人がいたのかも知れない」
 ドロシーの眼差しを受け止めながら、ちょっと考えて。
「…いないかも知れない。やっぱり、理由は良くわからないよ。でも、記憶を失っても恋に落ちる人がいるのなら、友情だってそんな風に生まれることがあるかもしれない」
「友達になるのに理由がわからないの」
「うん。そうだね」
「……」
 ふい、と顔を譜面のほうに戻しながら。
「あなたと私、良い友達になれると思う」
「もう、なってると思うよ」
「そう」
 変わらぬ、素っ気ない相づち。
 成歩堂はドロシーの奏でる優しいワルツにしばし耳を傾ける。