メモ 2

 雲間から漏れるぼんやりとした朝の光が広いホールに注がれている。
 その中にぽつんと黒く浮き上がるグランドピアノは、まるでおもちゃのように見える。
 ゆっくりと時間をかけてそこまでたどり着き、蓋を開けようと触れたところに、くっきりと自分の指紋が付いた。
「……」
 しかしためらうこと無く、そのまま指先に力を込めて重い蓋を持ち上げる。
 蓋の中身はつやつやと柔和な光を放ち、使い込まれていること、手入れが行き届いていることを主張している。
 それにも構わず、人差し指で適当な鍵盤を無造作に弾く。
 ――――
 静かな邸内に、ハンマーが弦を叩いた反響が染み渡っていく。
「…まいったなあ」
 椅子に腰を下ろしながら、成歩堂はニット帽ごと頭をさする。
「これ、後ろの蓋って開けた方が良いのかな…」
 しばらくぼんやりと、ホールに残る残響に耳を澄ませてから、成歩堂はいきなりそれを開始した。



 それが開始された瞬間に、ロジャー・スミスは微睡むいとまも与えられずにたたき起こされた。
R・ドロシー・ウェインライト…!」
 すばやく愛用のガウンを羽織り、スリッパに両足をつっこむ。
R・ドロシー・ウェインライト…!」
 呪いの文句の代わりにアンドロイドの名前を呼びながら、ひんやりした廊下をロジャーはつかつかと進む。2つほど角を曲がり、階段を降りる。角を曲がり、ステップを降りるごとにアンドロイドの奏でる凶悪な音がロジャーのこめかみをきりきりと締め上げる。
「R…」
 ロジャーの目の前に、ついにホールの大扉が現れる。
「ドロシー…」
 ドアの取っ手を、両手でぐいと引く。
「ウェインライト!!」
 大扉が開け放たれると、呪いの演奏はぴたりと止んだ。
 しかし、ロジャーはむしろ表情を険しくさせて、早足になってピアノのところへと歩み寄る。
「なんだね君は。それに、R・ドロシー・ウェインライトは何処だ」
「おはようございます、ロジャー・スミスさん」
 おっとりとした声があまりにもあっけなくロジャーを呼ぶ。
「僕は成歩堂龍一です。ドロシーくんは今日から3日間、不在です」
「…不在?」
 そこでようやくロジャーは昨日のやりとりを思い出す。
「僕はドロシーくんに、彼女の休暇中に仕事の引き継ぎをすることを依頼されて、ここにいます。彼女の業務を、僕が代行する。そしてドロシーくんの上司であるノーマンさんに了承をいただきました」
「な、な…」
 成歩堂は、パーカーのポケットからくたくたになった封筒を取り出してみせる。ロジャーはそれをむしり取って、中身を開く。
『3日間、R・ドロシー・ウェインライトのあらゆる業務を成歩堂龍一が代行するものとする』
 たったそれだけの一文と、日付やサインの添え書き。
「こんなものに効力があると思っているのかね!」
「はい。お互いの同意に基づいた契約です」
 妙に言い慣れた感のある成歩堂の態度に、ロジャーはつい、成歩堂をまじまじと見返す。悪趣味なニット帽、洗濯はされているようだが毛玉だらけのパーカー、同様のスウェットのパンツ、極めつけは素足にサンダルをつっかけている――それなのに、ロジャーを見返すまなざしはいたって真摯な光をたたえている。
「ミスター…、ナルホドーといったな」
「はい」
「非常に不本意だが、契約が交わされてしまったのであれば今回は仕方が無かろう」
「ご理解いただき、ありがとうございます」
「ただし。この屋敷には私の決めたルールがある。それを君に必ず守ってもらう、いいな」
「わかりました」
「まずは、その」
 人差し指を、成歩堂の胸元につきつけて、ロジャー。
「服、だ」