イレギュラー

 ギュッ・・・ギュッ・・・。ペダルをやっと回して、チェーンとギアが軋む音。それと、自分の上がりきった息づかい。後は、姿が見えないのにどれだけいるのか見当もつかないような鳥の鳴き声。
 それだけ。後は、ただただ静寂だ。
 2度だけ、立派な太股をしたオジサンに追い抜かされた。
 おはよう、早いね。
 君も坂が好きなの?
 頑張ってな。
 ゆっくり、ゆっくり、差が開いていって、いくつか山道のコーナーを数えるうちにその姿は見えなくなっていく。
(小野田君は・・・すごかったな)
 初めてのレース、初めてのロードレーサーで、あっと言う間に自分を抜き去ってしまった同級生。
 それに、1年生ながらもレギュラーを勝ち取った、今泉や鳴子。自分とはあまりにも住む世界が違うと思う。
(僕は・・・坂・・・楽しくないし、ね)
 道路の亀裂を避けようとして、少しバランスを崩してしまったら、あっと言う間に建て直しがきかなくなったので、慌てて足をつく。
「ふう・・・、いけないいけない、エネルギー補給はこまめにしないとね。ぼうっとしちゃったかな」
 自転車を降りると、長く続く坂道に負荷のかかりっぱなしだった上半身がようやく解放される。
 座ってしまうと立てなくなってしまいそうなので、立ったまま、サドルバックに入れておいたバナナを1本、口に運ぶ。
「ロングライドは・・・、やっぱり、楽しまないとね」
 早朝の山道の、柔らかい日差しにコルナゴはよく似合う。交換したばかりのバーテープは、少し巻き方が悪かったのかもしれない。握っていた部分に、少しアトがついてしまっているようだった。
 サイコンの走行距離は、35キロ。もうこんなに走っていたのかと、ドキドキする。大事な相棒と出かけると、それだけでワクワクする。
 最後の一口をドリンクで流し込んでから、軽く肩を回したり足のストレッチをしてやる。ふくらはぎはカチカチになってしまって、自分の足じゃないみたいだ。
「やっぱり、ハムストリングだね・・・オシリから太股まで、一緒に・・・」
 雑誌で読んだ記事を思い出しながら、イメージトレーニングしてみる。前回、亀石ダムまで走ったときは、体中あちこちがものすごい筋肉痛になったけど、今日はまたあんな感じになるのかな?あのとき、玄関の段差で転んだのはびっくりした。
コルナゴちゃんに初めて乗ったときも、酷かったな)
 肩が痛くなったり、首が痛くなったり、オシリが痛くなったり。でも、だんだん、仲良く乗れるようになってきた。
「じゃあ、もう少し頑張ろうかな」
 ガードレールに立てかけた自転車を起こし、ふらつきながらサドルをまたぐ。必要以上にヨタヨタしながら、思わず右のシフトを操作するが、手応えがない。ずっと手前から、一番軽いギアで走っていたのを忘れていた。
 何とか姿勢を持ち直し、サドルにオシリをつけたまま、ゆっくり、ゆっくり上る。
(ハシゴを・・・上る、ハシゴ・・・を、上る・・・)
 ハンドルにしがみついて、上半身を引きつけるように。ペダルを漕ぐ動きにあわせて、肩と胸のつなぎ目のあたりが、キュッ、と引き締まる。
 はあっ、はあっ、ふっ・・・、はあっ、はあっ・・・。
 自分の息切れ。それから、チェーンとギアが軋む音。後は鳥たちの鳴き声。
 突然、ひときわ高く、ヒバリが頭上でさえずり始めた。いつまでもいつまでも、彼の頭上で歌い続ける。
「ハハハ・・・」
 なぜか少し嬉しくなって、ちょっと力が湧くような気がした。顔を上げようと姿勢を起こすと、1台、彼の後ろから誰かがやってくる気配に気がついた。ペダルを回すペースが、彼はもちろん、先に追い抜いていったオジサン達よりも早い。ぐんぐん近づいてくるようだ。
(まさか・・・?)
 彼の同学年の、いくつかの顔がよぎる。気づけば再び自転車を止めて、坂を上ってくる誰かを振り向く。
(あ、あれは・・・)
 見間違えのしようがない。
「巻島センパイ!センパーイーー!」
 声をかけると、先輩はこちらが誰か気づいたようだ。まるで角度の違う坂を上っているんじゃないかと思えるほど、あっと言う間に、彼のところまで上ってきた。
 おはようございます!と改めて挨拶すると、巻島はちょっと戸惑っているようだった。
「ええとキミ・・・アンタ・・・こんなところで何やってるッショ」
「ハイ、自主練です!早朝から自然の中を自転車で走っていると、こう・・・自転車と、自分と、それから木々とか、そういう自然との一体感って言うんですね!自転車に乗る者だけに与えられた充実感で自転車乗りとして生まれて良かったって言うか。そんな感じですよね!」
「それは・・・うん、あー・・・関心ッショ」
「ありがとうございます!センパイはよくこちらの方にいらっしゃるんですか?」
「まぁ・・・登りがやりたくなったら、ここらが一番近いし・・・ほかにも、まぁ、つくばの方・・・とか・・・」
「さすがピーク・スパイダーですね!尊敬しちゃいます、僕!ええ!」
「そ・・・そうッショ?どうも」
 あちこち視線をやりながら、チラチラとこちらに視線をよこしつつ、ぼそぼそと巻島は返事を返す。ちょっと変わった人だけど、すごく良い人だって小野田も言っていた。彼自身もそう思う。自転車乗りに悪い人はいない。
「その・・・、この坂、も少し登ったらラクになるッショ。それまで、引いて・・・って、やろうか?」
 巻島の言葉に、それまでの疲労も吹き飛んだような気分だ。一緒に走ってくれるなんて!
「本当ですか?ありがとうございます!すみません、練習の邪魔をしちゃって」
「気にするなショ」
 短く言って、巻島はくるっと自転車の向きを変えて、背中を向けた。あわててペダルに足をかける。
 ぐわっ、と目の前で巻島の自転車が大きく傾いた。初めて見たときは誰でも驚く。それで転ばないのが不思議だし、それでいて登りでは驚くほど早い。今は、彼に合わせて、ゆっくり、ゆっくり自転車を揺らしている。獲物を待ちかまえる蜘蛛のようにも見える。
「すごい!すごいですね、ピーク・スパイダー!これだけ間近で見るとまたすごいっていうか!」
「いや・・・いいから、漕ぐッショ」
 巻島はさすがに煩わしい様子に見えた。
「はいっ」
 いつもだったら、降りてコルナゴを引いていくような坂道を、巻島の後に続いて、ゆっくり、ゆっくり登っていく。


「アンタ・・・自転車、好きなんショ?」
 突然そんなことを言われて、少し戸惑った。
「え?はい、もちろん・・・」
「でも、レースはまだ良くわかんないってとこでショ。・・・自転車に乗って、走ってれば楽しいし・・・目の色変えて必死にペダルを回してるヤツら、意味わかんねーって、思ってるショ」
「え?・・・いやぁ・・・・・」
 何ともいえず、言葉を返せずにいると、さらに巻島は続けた。
「オレ、それはそれで悪くないと思うッショ?その・・・例えば、田所っちみたいに筋肉ダルマになって平地でガツガツぶつかりながら・・・っていうの、オレには無理だし。アンタが坂を登りたいなら頑張ればいいし、そうじゃなきゃ別のことで頑張ればいい・・・と、思うっショ」
 ぐらり、ぐらりと蛇行しながら、見事なまでに頭の位置だけはほとんど動かさない独特のフォーム。巻島が自転車に乗り続けている理由、それがその答え。
「うーん・・・、競技で、何をやったら楽しいかって言われたら、そりゃまあ、確かに良くわからないんですけど。ロードレース自体は憧れるし、かといってハードなトレーニングは僕には合わないなあ、とは思うんですけどねぇ。
 でも、でもですよ。僕よりも全然初心者で、まだ自転車のことも良くわからないような小野田君があんなに楽しそうにペダルを回してるのを見てると、僕にも何か見つけられるんじゃないかって、すごいワクワクするんです!ロードレースの可能性・・・そう!可能性ってヤツですかね!みんながペダルを回しているのを見てると、僕もペダルを回したくなるんですよね」
 もちろん、コルナゴのペダルを。
「クハ・・・」
 巻島は笑ったらしかった。
「そろそろ・・・斜度が変わるショ」
 顔を上げると、カーブの向こう側が緩やかになっているのがわかる。
「じゃあ・・・。アンタは、アンタのペースで登るといいショ」
「はい、・・・ありがとうございました」
 ふと、巻島が考え込むような顔をした。
「そういえば、帰りはどうするショ」
「渓谷駅から、輪行で、帰ります」
 巻島には予想外だったらしい。確かに、今泉や鳴子は自走で帰るに違いない。
「そう・・・、輪行ね。ま、それもまたいいショ」
「はい!」
「じゃ、気をつけてッショ」
「ありがとうございました!」
 ひとつ照れくさそうに小さく手を振ってから、蜘蛛がぐんぐんスピードを上げて登り始める。とても追いつけそうにない。
 カーブをひとつ折れて、ゆるやかな登りがまだしばらく続くようだった。ガードレールから見下ろすと、今まで登ってきた道と、随分と小さくなった市街地が一望できる。
「今日は、随分登ったね!これも僕の成長ってことかね」
 ひとつ大きく伸びをして、決めた。
「よし、今日はもう帰るか!」
 家に帰ってから、タイヤを洗って、フレームを拭いて、バーテープを巻き直して・・・。
 はやる心を押さえながら、背中のポケットからゴアテックス上着を取り出して素早く羽織ると、杉元は来た道をゆっくり下っていった。


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杉元くんは自分にとって今後が一番気になるキャラクターです。
自分みたいにポタポタするくらいでちょうど良い人間にしてみれば、
あんまり変わっちゃったり目覚めちゃったりしても
多少残念な部分はあるなーというのが正直なところ。
それから、今のままの杉元も「ある意味スゲー」という部分が
ちょこちょこ垣間見られるのが彼の魅力だと思っています。

金城キャプテンあたりとからむとどんなかんじなのかな、見てみたいです。切望。

あ、技術的なこととかあんま詳しくないです。