はじめまして

 ハイランド皇国の皇女ジルは、物心付くと後宮の奥で人目をはばかるように育てられてきた。そう彼女が感じるのは単に、思いこみかも知れない。父王は時間を作って彼女の様子を見に来るが、彼女の目を見たことはなかった。王妃は病弱と言うことでやはり彼女からは遠ざけられていた。
 そして兄皇子は、王都ルルノイエそのものから遠ざけられていた。
 教師が付いて礼儀作法や読み書きの勉強をする頃になってから、国境近くに用意された別荘で夏を過ごすようになった。別荘の使用人達はみなジルをかわいがってくれたが、かわいがっていた犬が死んでからは、彼女たちに心を開くことはできなくなった。毒殺だったからだ。

 ジルは何度目かになる別荘での夏を過ごしていた。木陰に用意されたベンチに座り、この別荘にやってくる度に読んでいる本を読み返していた。日はまだ昇りきっておらず、近くの街では昼食を楽しみにしながら人々が仕事に精を出しているかもしれない。その賑やかさの名残がここまで届いてくる気がして、外にいることを好んだ。馬車の中からしか人々の様子を見たことはなかったが、ジルが宮廷や別荘では見たことのない表情をしていたし、ジルの見たことのないものが町中に溢れていた。
 人の声がして、ジルは顔を上げた。男の言い争うような声だ。この屋敷に、男性は庭師と門番くらいしかいない。声は門の方からする。他の使用人達も異変に気づいたのだろう、何人か門の方に向かっている。
 ジルは、少し離れて控えていた使用人がこちらにゆっくり歩いてくるのを横目でちらりと見た。屋敷の中に戻らせるつもりだろう。ジルは走り出していた。
「お待ち下さいませ、ジル様──」
 背中から追ってくる声をふりほどくように、更に足を速めた。気持ちよかったのは一瞬で、すぐに空気を求めて胸は苦しくなり、心臓の鼓動も破裂してしまいそうに激しくなる。恐怖に足がすくみそうになったが、それにもまして門に行きたいという気持ちが足を動かした。
 ジルの足で20歩は離れた辺りで、ついに力が抜けて足が止まってしまった。耳元で激しく鳴る心音に遮られながら、門番達の会話がようやく耳に届いてきた。
「しかし──通すわけには」
「急用──王都で──」
「──しかし」
「殿下が──」
 殿下という言葉だけ、鮮明にジルの耳に飛び込んできた。ようやく追いついてきた使用人が、やはり同じ単語に反応して門番達へと顔を巡らせる。
「通せ」
 良く通る若い男の声だ。ジルには分からなかったが、声変わりをしたばかりの少年のような声だった。その声に押されるように、難色を示していた門番達が横に退いた。──門扉が開かれた。
 現れたのは、白い鎧に身を包んだ男だった。指すような鋭い目つきは遠くからでもはっきりとこちらを射抜いてきた。目があったのが分かった。さっきまでむせかえるようだった呼吸がすっと不自然に収まった。
 おお、と使用人が声を上げて退いた。その男の白い甲冑は、土埃と、それ以外の何かで薄汚れていた。ジルはただ背筋を伸ばして立ちつくしていた。男はこちらにやってくる。そして、少し距離を置いて立ち止まった。
「お前がジルか」
「左様でございます、お兄様」
 落ち着いた彼女の返事に、男は──ルカは、驚いたようだ。じっとこちらを見据えていたが、ふと表情をゆがめた。
「俺を兄と呼ぶか。面白い」
 どう答えて良いか分からず、ジルはただ男から視線をそらさずにいた。
「母上が亡くなったそうだ」
 その言葉にも、どう反応して良いか分からなかった。ほとんど顔も合わせたことのない人だ。自分の母親であるということ意外は、何も知らない。
 ジルが黙ったままでいると、ルカは急に笑い出した。
「ははは!確かに、お前は俺の妹らしいな!」
「……」
「葬儀がある。急いでルルノイエに戻れ」
 さっときびすを返そうとしたルカに、ジルは訊ねた。
「お兄様も、行かれるのですか」
 ずっと王都に戻ることの無かった彼が、王都に帰るというのが、ジルにはぴんとこなかった。
 この問いに、ルカは再び声を上げて笑った。
「面白いことを聞く。この俺でも、王妃の葬儀には招喚せざるをえなかったようだぞ」
「……」
「ジルよ、俺がどこにいたか分かるか?」
 ジルは首を振った。
「では、何をしていたか分かるか?」
 また首を振った。
「戦争だ。人を殺してきたのだ!」
 声をあげて笑い、ルカはジルに背を向けた。ジルがそのまま見送っていると、ふと立ち止まった。
「ルルノイエで会うのを楽しみにしているぞ、我が妹よ」
 言い残して、門を出て、姿が見えなくなった。
「ジル様…ジル様」
 すっかり青ざめた使用人が、ジルの手を引いた。
「支度をなさいませ…王都に行かなくては」
「はい」
 短く返事して、使用人に手を引かれたジルは一度だけ門扉を振り返った。

 これが、ルカとの初めての邂逅だった。


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単品では興味なかったんですが
兄妹でくくるとジルさんもなんだか興味あります。