これまで

 不思議なことに、坑道の中は真っ暗ではない。どういう理由かは分からないが、壁や天井の所々に淡く光る部分があり、まるで星空の中に落ちたみたいだ。
 その輝きに夢中になり、坑道に入っていった当初の怒りも忘れ、気が付いたらずいぶんと奥まで入り込んでいたらしい。今や、彼女は息を潜めて壁のくぼみに精一杯身体を寄せて、それでも意地で歯がならないように、ぎゅっとくいしばっていた。
 長いこと彷徨って、疲れたのもある。ようやく人を見つけたと思ったら、非道くにおって、所々白い骨が見えていたりとか、向こう側が透けている女の人に会ったりだとか。

 もし、彼女がもうちょっとだけ大人で、父親とあの男の会話に多少の注意を払っていたとしたら、坑道にはいるような真似はしなかっただろう。
 子供にとって天敵ともいえる「オバケ」は抽象的なものにすぎないが、この坑道にはそれらが「アンデッド・モンスター」として、現実的な驚異となってしまっているのだ。

 それでも、呆れたことに、彼女はただ怖がっていたのは一時のことで、どうやったら外に出られるのかを考え始めた。やがて、足下に散らばっていた小石を拾い集め、ありったけをポケットに詰めた。それから、足下に拾った石で円をつくる。そして、これから進む方向に一本線を付け足して、意を決してそろそろと歩き出した。
 地下水のしずくが床を打つごく小さな響きがありとあらゆる所から聞こえてくる。そして、それ以外は全くの無音だ。その中を一歩ずつ踏み出すのは恐ろしく勇気の要る作業だった。分かれ道に出会う度に円と線を作り、着実に坑道の外へ、あるいは奥へと向かって進んでいった。
 泣くもんか、謝るもんか。それだけを口に出さずに繰り返し、手に石を握りしめながら、いくつめかの分かれ道に近づいてきた時のこと。
「………」
 何かの音の残滓が、かすかにリリィの耳に届いた。
「!」
 慌てて、壁に身を寄せる。じっと様子を窺ってみるが、もう何も聞こえてこない。
 まだ、ここで動いたら駄目だ、もうちょっと様子を見ないと。
 何度も言い聞かせたが、ほんのちょっとの辛抱で効果を使い果たしてしまった。通路の交わったところまで近づき、恐る恐るのぞき込もうとした時。
「……。……のか…?」
 遠くだが、はっきりと人の声と分かった。身を乗り出して通路を見渡すが、動くものは何も見えない。走り出しかけて、今までと同じように石を並べておく。自分一人でどうにかできるんだから、と子供らしい意地を思い出したからだ。

 声の聞こえた方に進む前に、今来た方向を振り返ってみる。どこまでも、星空のような幻想的な輝きが続いている、その奥で、星が瞬いたような気がした。
 不安が、そしてすぐに恐怖がリリィを襲った。
 ここの星は瞬かない。
 …それに、あちらからは何も声がしなかった!

 ほとんど恐慌状態になりながら、リリィはもはやなりふり構わず走り出した。鉱石のクズやトロッコの枕木に何度も躓きそうになりながら、奇跡的に転ぶこともなく。ずいぶん長い時間走っているような感覚だったが、それはほんの数分の時間だったのかも知れない。
「…のか…。…リリィ…。………リリィ…!」
 はっきりと、自分を呼んでいる声が聞こえてきた。声を出すのももどかしく走り続けると、先の方に、坑道の静かな星達とは違う、暖かい色の光が揺らめくのが見えた。
 走っていた足から力が抜けそうになり、とたんに転んでしまった。
「きゃあっ」
「リリィか?」
 誰かが、こちらに走ってくる足音がだんだんはっきりとしたものになってくる。さすがに気が抜けて、こらえていた涙と、鼻水と、顎の震えで訳の分からない顔になってしまった。
 手にたいまつを持った人影の形がはっきりしてきた頃に、リリィはその人物の声に聞き覚えがあるのを思い出した。そして、その声の主をはっきりと思いだした時に、ちょうど彼が彼女のもとに辿り着いた。
「転んだのか?見せてみなさい」
 彼女を見下ろしている、男の顔を見上げる。
 来た時と同じ黒ずくめの不吉な衣装が、そのままのかたちに星の光を遮り、そこだけが真の暗闇を作っていた。
 その先に、男の顔だけがたいまつの明かりに照らされていた。
「あんた、なんできたのよ!」
 ぐしゃぐしゃの顔で突然そう怒鳴られて、さすがに彼もビックリしたようだ。言葉が出てこない様子の彼に、リリィは無我夢中でわめきちらした。
「あんたなんて嫌いなんだから!パパだって嫌いよ!みんな、あんたのことばっかりで、リリィのことなんてどうでもいいんだもん!もう、ティントになんか帰らないんだから!」
 急に全身に力が戻ってきたリリィ。もと来た方にかけだした。一瞬遅れて、カーンも慌ててリリィを追いかける。
「待つんだ!危ないから…」
 この言葉はかえってリリィの怒りを逆なでしてしまった。
 ふん、子供扱いして。今までずっと平気だったんだから。あんたなんかに追いつけるもんか。等々毒づきながら、走るリリィの後ろから、カーンの鋭い声がした。
「リリィ!」
 本気で怒ったって、謝ってあげないんだから。舌を出して見せた彼女だったが、振り向いた視線を戻した時、行く手、それも近いところに誰かが立っているのを見つけた。そして、ほんの数分前までの自分が唐突に蘇ってきた。
「あ…」
 ひるんで、立ちつくすリリィの後ろから、カーンが何か叫んだ。そして次の瞬間、リリィの視界が閃光にくらんだ。
「きゃあっ?」
 両手で顔をかばう彼女の足先に、火のついたたいまつと、その名残の火の粉が転がって、そしてたちまちに光を失った。その短い間に、彼女は確かに人影が死人であることを確認していた。
 それを待っていたかのようなタイミングで、彼女とゾンビの間にカーンが割り込んだ。
 再びの閃光。
 なにか、柔らかいものが崩れるような音がして、真っ暗になった。
 それからゆっくり、星の光が再び視界に戻ってくる。
「すまなかったね」
 かがみ込んできたカーンと、はじめて同じ高さから目があった。
 ものすごく優しい顔をしていたので驚いていると、きっと何か勘違いをしたのだろう、手袋をした手で頭を撫でて、よくがんばったね、とささやいた。
「転んだところをみせてごらん」
 大人しく膝を出すと、頭を撫でてくれた手をそっと膝にかざしてみせた。リリィにも、彼がなにか紋章の力を使っているのは分かった。手袋の内側から少し優しく光って、膝の痛みが和らぐまで、リリィはカーンの顔をじっと眺めていた。
「後は明るいところに出るまで、がまんしてくれるかな?」
 頷くと、また頭を撫でてくれた。そしてそのまま、もっと小さな子供にするように彼女をだっこをして、ゆっくり歩き出した。

「なあ、リリィ。私と仲直りをしてもらえないかな」
「……」
 黙って少しだけ頷いた気配がした。
「そうか、良かった。ありがとう」
 不思議なことに、本当に嬉しそうに聞こえた。
「…ねえ、なんでおこんないの?」
「そうだなあ、リリィが頑張ったからかな。私も、リリィと同じくらいの年の頃、とても怖い目にあったけれんど、私は怖くて何も出来なかったんだ。リリィは自分でなんとかしようと頑張っただろう。だからかな」
「…リリィだって、こわかったもん」
 もう平気になったけれど。
「そうか。頑張ったんだね」
「うん。リリィね、小さい時に吸血鬼にさらわれたんだって。覚えてないんだけど、その時だってものすごく怖かったと思うの」
 どうやら励まそうとしてくれているらしい。
 実際にその時の様子を、彼女よりしっかり覚えているカーンだった。
「そうか、リリィのおかげで元気がでてきたよ」
「ほんと?」
「ああ」
 首にしがみついていたリリィは体を離してカーンの顔をのぞくと、彼に向かって初めてにっこり笑った。
「良かった!」
 カーンもにっこり笑った。
「もう大丈夫だよ。自分で歩くから、下ろして」
 言われたとおりに下ろしてやると、リリィはカーンの手を握った。
「もう、カーンとお友達だからね!」
 すっかり元気になって歩き出した。

 それからすぐに、他の場所を捜索に行っていた抗夫達の灯りが通路の先に見えてきた。


 ようやく日の光の下に出ると、ティントの者達が大勢、坑道の入り口近くに集まっていた。
 すぐに、グスタフが呼ばれて駆けつけてきた。
「リリィ、無事か?」
「うん…」
「そうか!良かった、良かった!もう大丈夫、パパがついてるからな」
 リリィを抱え上げて、グスタフは無邪気にはしゃいでいたが。
「…パパ」
「ん?どうした、リリィ。どこかケガでもしたのか?」
「ごめんなさい」
 その言葉は、グスタフを始め、周囲の者みんなを固まらせた。
 ただ一人、カーンだけはわずかに苦笑していたが。
「心配を掛けて、ごめんなさい」
 もう一度謝ると、グスタフはもう一度娘の名前を呼んでから、思いっきり抱きしめた。
 それから、リリィを下ろすと、カーンに頭を下げた。
「カーン殿、また、何とお礼を言って良いか…本当に…」
「いえ、お気になさらないでください。もう充分、お礼はお嬢さんから頂きましたから。ね、リリィ」
 グスタフがきょとんとしていると、リリィは胸を張って、
「リリィね、カーンとお友達になったんだよ!」
 グスタフはビックリしたようだったが、それは良かった、と言ってまたリリィを抱きしめた。

 父親から解放されると、リリィはおずおずと彼女の友人の前に戻ってきた。
「今日は、…ありがとう」
 カーンは腰を落として、リリィの顔をのぞき込んだ。
「どういたしまして」
 そういって頭を撫でてやると、リリィは言い慣れないことを言って居心地が悪くなったのか、顔を真っ赤にして走って行ってしまった。
「あーっ、お嬢さん!」
 グスタフの部下達が何人か後を追っていった。困り顔で見送っていると。
「カーン殿」
 グスタフに声を掛けられて、カーンはあわてて立ち上がった。
「娘の友人になってくれて、ありがとう。至らない父親だが、娘をよろしく頼みます」
「大げさですよ、市長殿」
 さすがにカーンが苦笑すると、グスタフもそうかな、と言って笑った。
「あの子の本当の友達になってあげてください」
「もちろんです」
 そういって2人は握手を交わしたのだが。

 やっぱりなにか違う気がして、こっそり首をひねるカーンだった。