間食

 すたすた、とあまり遠慮を感じない足音がこちらに近づいてくるのを背中に聞いて、ニケアはちょっとだけ気が重くなった。
(あの人、苦手なんだよね…)
 偉そうだし。
 時々見ていられないようなことがあっても、全然平気そうにしていたり。そういうところもすごく苦手だ。
 それなのに、足音はどんどん偉そうに近づいてきて、ふと止んだ。


「…なにやってるんだ?お前」
 振り向けば、予想通りのあきれ顔でオロクが立っていた。
「なんかさあ、こういう景色見てると切なくなってこない?」
「はあ?」
 西に傾いた太陽に染められて赤く染まったフェイタスの流れは、きらきらと金色に瞬いて、超然と流れていく。
 そんな川面に向かって河原に腰を下ろし、膝を抱えて女の子が1人でいかにもアンニュイなため息をついていたというのに。
「腹でも減ったのか」
 そんなオロクの顔を見上げて、はあ、と更にひとつため息をつく。
「…減った、かも」
「よく食う女だな」
「うん。なんか持ってない?」
「俺の分ならな」
「ちょうだい」
「…………」
 相当嫌そうだったが、終いには折れて、抱えていた紙袋から食パンを1枚寄越してきた。ニケアは相当がっかりして見せた。
「オロクさん、好きだねえ…」
「別に」
 文句を言うならやらないと言い出す前に(絶対に言われる)それを受け取って、さらに手を差し出す。オロクはしぶしぶ、包みの中からマスタードを取り出す。
「まあ、ねえ…。不味いとは言わないけど、ねえ」
 表面におざなりにマスタードを塗ったくり、ハイどうも、と彼に返す。
「ここで買ったの?」
「ああ。店が開いていたからな」
「ランディおじさんのお店?良かった、営業できるようになったんだ」
 ここ最近、人足としてレルカーでの復興作業に連れ回されるようになって、ニケアはすぐに町の人達と顔なじみになってしまっていた。理由はと言えばその働きによるものではなくて、東、中央、西の炊き出しに全て顔を出しているからだ。
 ランディを彼女が知っていたことにオロクは少し驚いたようで、軽く眉を上げた。
「釜は無事だったそうだ。イーストは前回来たときに渡しておいた」
 オロクも食パンを取り出し、マスタードを薄く塗る。その量をニケアはなんとなく横目で確認していた。たまに、とんでもない量を塗り重ねているのを見たことがある。
「…ねえ、オロクさんも座れば」
「いい」
 紙袋を抱えたまま器用に作業をこなすのはやっぱり慣れているからという感じだ。こちらを見もせず、さっきまでのニケアのように川面の彼方にぼんやりした視線を向けながら、1口、2口かじりだすその様子は、いつも通りあまり美味しそうに見えない。
 それでも、なんとなくいつもと雰囲気が違うような気がするのは、珍しく彼女が見上げているせいなのか、夕暮れ時だからなのか、ひょっとすると、ランディおじさんのパンだから。
「パン、美味しいね」
「そうだな」
 ニケアの言葉に肯定が返ってくるのも、珍しいと言えば珍しい。
(それはさすがに、ひがみかなぁ)
 一向にニケアの視線に気づきそうもないオロクの視線を追うように、ニケアも川面に目をやった。空の赤がいっそう濃くなっている。もうすぐ日が落ちて、そうすればこの川は蒼く染まる。そんな時間になる前にいつもは城に引き揚げてしまうから見たことはないだろうけど、きっときれいだろう。
「やあ、オロクさん。ご苦労様です」
「ああ。あんたもな」
 通りがかった人とそんなやりとりをするのにやっと川から顔を背け、向き直ったその顔を見て、
(あ、いつもの)
 ちょっと安心したような、ガッカリしたような。
 でも、この人があんな顔で川を眺めてるのを、この町の西の中州の、どういう訳かオロクさんを大好きな人達はきっとみんな知っているのだろうという気がした。
「オロクさん。今けっこう泣きそうじゃなかった?」
「はあ?」
 それはあんたの方だろう、と口に出しかけてやめた気配がした。
(ああ、いつもの)
 ニケアもいつもの笑顔になって、半分のところまで食べていた食パンを一気に口に詰め込むと、なんだかちょっとだけいつもより幸せな気分になった気がした。
 オロクはいつもの通り、呆れていたみたいだったけど。

「…そこの桟橋の土台の柱に紐が結んであるだろう」
「うん?」
 促されて、その桟橋に紐を探す。水面から子供の背丈ほどの高さに、紐が結んである。
「あるね。オロクさんが結んだの?」
「そういう話じゃないよ」
 少し困った顔になったオロクを見て、本当にあの紐は彼が結んだものらしいとピンときたけど、そのあたりは何やら聞き出しにくそうな気配だ。
(こういうのは聞き出すとなると、時間と順番だからなあ)
 まあ、差し迫って知りたいということもないので、ニケアはそのまま、オロクの言葉の続きを待った。
「川の水量を量っているんだ、あれで。他にも何カ所かにああいう風に紐が結んであって、雨期や嵐の多い時期なんかに水の量があの紐に達したら、まず中央の中州の住人は西と東それぞれに避難することになっている。どちらに避難するかは住所ごとに割り振りが決まっている。それから、さらに水量が増えるようなら東西どちらの中州からも引き揚げる」
「へえ、大変だねえ」
 そう思っているとは思えない、のんきな相づちだったが。
「毎年訓練をしているからあんたが思っているほどじゃない。商売ものの荷物はそれ用に頑丈に作ってある蔵に入れる。避難用に備えている食料や毛布、薪、持ち運べる大きさの艀も運び出す。全部係と手順が決まっている。中州から引き揚げるときには、最後に橋の手すりを取り外す」
「手すり?」
「橋が流された場合に、橋をかけ直すまでの応急の橋をそれで作る」
「へえ〜、ほんとに全部、決まってるんだ」
 川の真ん中に町があるということは、思っていたより結構大変なことらしい。
「…それでも、5年前の大嵐では、避難が間に合わなくて大勢流されたし、町だってめちゃくちゃになった」
「5年前かあ…」
 さすがにニケアも目を丸くした。この町のどこにも、ニケアの目にそれと分かる災害の爪痕は残っていなかったように思う。それはつまり、それだけこの町は水害に対して壮絶な歴史が続いているということかも知れない。
「5年。すごいねえ」
「この町は、頭を使えばそれなりに実入りが良いのと、立ち直りの早さが取り柄みたいなものだからな」
 当たり前だ、という表情で、オロクは食パンの最後の一口を放り込んだ。まだ食べていたのか、と妙なところに内心ニケアは感心した。
「…そうですか」
「ん」
 もぐもぐ租借しながら頷く様子は、妙に可愛かった。
 日の沈んだ反対側の空は青色が深く、濃くなってきている。さっきまで橙だった桟橋も蒼く染まり、やがて夜の闇と同化する準備をはじめたようだ。
 太陽の輝きを失った川面は、とたんに空よりも暗く、重くなってしまった。
 それでも、
「明け方とか、きれいなんだろうなあ」
「ああ。起きられたらな」
 夜明けが来たら、この町はまるで魔法のようにたちまち元の輝きを取り戻すことを、それだけは頑なに、オロクは疑っていないのだ。
 なんだか損した気分になった。
「ほら、もう立て。王子を待たせるわけにはいかんだろうが」
「あ、ああ、そうだった」
 今日はセツ王子がレルカーの様子を見に来ていて、みんなでワシールの屋敷で夕飯を戴くことになっているのだ。
 立ち上がって衣服に付いた小石をはらうと、ほれ、と紙袋を渡された。とりあえず受け取ってから意味を尋ねようとニケアが何か言い出す前に、オロクはヒョイ、と、たった今まで彼女が座っていた場所の脇の辺りにかがみこんだ。
 先ほどと逆の立ち位置になって、ニケアは
(この人、ほんとに素直じゃないんだなあ…)
 そんなことを考えながらめまいすら覚えた。
 オロクは河原によく転がっている、丸くて平たい石をひとつ拾い上げると、そのまま岸のふちまで行き、なかなか様になった様子で拾った小石を横投げに投げた。
 …ところが小石は予想に反して、ぼちょっ、とこれ以上ないくらい様にならない音を立てて一度も水面をはねずに沈没した。
「だ、はっは」
 不意打ちで笑わされたおかげで妙な声で笑ってしまった。振り返ったオロクもその笑い声に、呆れたり怒ったりするより先に、ちょっと気の抜けた笑顔を見せた。
 夕闇でほとんど見えなかったが。

 顔の様子がよく見えるほどに近づいた頃にはもう、元通りの表情で、ひょいと紙袋を取り上げた。ちょっと驚いていると、
「まさか、俺がまるごとあんたにやったと思ってた訳じゃないだろうな」
 これはどうやら、本気でその心配をしているらしい。
 実のところ、彼女に荷物を持たせることを当たり前だと思っているのだろうと、ニケアはそう疑っていなかったのだが。
「これから夕飯だし」
「ああ」
 くるりとニケアに背を向けて、さっさかと早足で歩き出すオロクの背中は、もう元通りの彼に戻っていた。さっきまでの不思議なオロクさんはたちまちどこかに消えてしまった。
(この人の背中はずるいなぁ)
 妙に腹が立った。しかし、背中に腹を立てたところで、この男にまた馬鹿にされるのは目に見えている。
(──まあ、どうでもいいや)
 そんなこと、考えても腹の足しにならないし。と、思いつくやいなや、腹が減りはじめた。
「…あーあ、お腹減ったぁ」
「お前なあ」
 呆れたその声が、背中越しにちょっとだけ普段より優しく聞こえたのは、あるいはレルカーの町を優しく包む川の音のせいかもしれない。

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 レルカーに行く度に、それなりにトラブルはありそうな気がするんですが、まったくへこたれるそぶりはなさそう。本当に気にしないのかどうかはわかんないですけど、心配されると一応感謝はするみたいだし、心配しなくて良いよくらいのことは返してくれるらしいですね。そういうやりとりに、読めなくもないですかねえ…。