夜の散歩

 たいまつのはぜる音にあわせて、自分の影が自分の意志とは無関係に踊る様子がどうにも心許なさをあおる。明かりはむしろ陰影を作り出し、その影の濃さを際だたせる。それらはまるで石壁の隙間から止めどなくにじみ出してくるかのようだ。
 嫌な考えになったと、視線を壁から廊下の先に立っている見張りに移す。黒い人影はむしろ不吉で、逆に不安な気持ちにさせる。
 …つまり、ザムザは夜の城が酷く苦手なのだった。
 スタア☆スタア城では、だいたい月に1度の割合で夜の見回りの番が回ってくる。3人一組で、その日はザムザ、ハウザー、カーンという(ちょっとスゴイ)組み合わせだった。3人で順番に城を一通り見回ることになっていて、その一番早い時間を買って出たのがザムザだった。
 とはいえ、日付も変わろうかという時刻だ。天気は小雨、もう昨日から降り続いており、城の闇をいっそう深くしている。窓の外を見るとより不安になるので、ザムザは早足に通路の先に立つ見張りまで歩いていった。
「どうだ、変わりはないか」
「はい、何もございません」
「そうか、ご苦労」
 長い時間留まるのも不自然だ。結局それだけの会話を済ませると、さっさと再び歩き出した。しかし、5、6歩も歩くともう後ろを振り返りたくなってくる。
 気づけば右手は、明かりを持つ左腕の肩に掛かるマントを固く握りしめていた。慌ててほこりを払うような仕草で右手を元の位置に戻す。
「ふん、…どうも、冷えていかんな」
 見張りの様子を背中越しに気にしながら、ザムザは広間の入り口で立ち止まった。この先には、ザムザがもっとも行きたくない場所がある。船着き場。
 正確には、そこに行くまでに通る、あの場所。
 いつも何事もなく終わるではないか。今日とて何かあるはずがない。それに、何があるというのだ。だいたい、何かあったとしても、ティントで数多のゾンビどもを打ち倒した自分が恐れるようなことが、あろうはずがない。
 そうだ、あるはずがない。何度も心の中で繰り返しながら、ザムザは威勢良く、船着き場に向かって足を踏み出した。


 通路を進んですぐ、嫌なものを見つけた。壁に掛けられたたいまつの1つが消えてしまっているのだ。そんなことは、今まであまりなかったのだが…。
「誰だ、手を抜きおって」
 早足になるザムザ。左手のランタンが、ささやかながらも闇を払う。
 そこに、白い影がよぎった。
「!」
 しかし、もうそこには何もない…。
 気のせいとはどうにも思えなかった。確かに、何かを「見た」。
 手元の明かりが照らすわずかな範囲の向こう側には、遠く通路の先のたいまつの光が揺れているのみ。
 ザムザはひどく苦労してつばを飲み込み、そしてようやく我に返った。自分の仕事を思い出したのだ。
「誰か、いるのか」
 緊張のあまり声にならなかった。再び試みる。
「誰か、いるのか」
 ようやく、がさいた声がのどから発せられたが、答えるものはいない。背中を向けるのは何より恐ろしく思えた。ザムザは勇敢にも暗闇に向かって進み始めた。

 夜露でじっとりと濡れた壁。規則正しく並ぶ床石。それらが明かりの中に切り取られたように浮かんでは背後に流れていく。そして唐突に、2本の細くて白いもの。
 ぎくりと立ち止まる。それは人の足だ。上半身は…シルエットになって、通路の先にあるたいまつの光を遮っている。小柄だ。子供と言っても良い。
 ランタンを持ち上げる。白い服。胸元に何かが光る。それから。
「…なんだ、貴様。そこで何をしている」
 ランタンに照らされてなお、その少女の周りには濃い闇がまとわりついているように見える。めずらしいほどにみごとな銀髪、病的な肌の白さ、そしてゆったりとした白い衣装。それらは何故か妙に暗く見える。そして、双眸がランタンの明かりを赤く跳ね返す。
 不吉な色だ、と思った。
「…散歩」
 少女らしい声が発せられるのを聞き、緊張しきっていた全身からいっぺんに力が抜けた。
「散歩だと!貴様のような子供がこんな時間に城をうろついて良いと思っているのか!今日は勘弁してやるから、さっさと帰って寝るんだな」
 少女は少し目を細めたようだ。その表情にザムザの言葉が途切れる。少女の周りの闇が、少し濃くなったように思えた。
「……」
 少女は、さらに目を細めた。笑っていた。ザムザの背筋が、冷たい指でなでられたようにぞくりと震えた。その笑い方は、子供のそれではない。
「ふふふ」
 声だけは可愛らしい子供の声。こちらに近づいてくる。単なる意地だけで、ザムザはかろうじて後じさりしそうになる足をその場にとどめた。
 少女が身を固くするザムザの脇を通り過ぎるのに、長い長い時間が過ぎ、そして通路を曲がって姿が見えなくなり、何事もなかったことを自分自身に確認してようやく、肺の底から安堵の息を吐き出した。
 硬直していた足から力が抜け、ふらふらと壁に寄りかかった。
「一体何なのだ、あの娘は…。け、けしからん。大人をからかいおって」
 脱力したはずみに、少女の消えた通路を照らしていたランタンが、だらりと自身の足下を照らし出す。そこに小さな人影を見つけて、ザムザは危うくも悲鳴を飲み込んだ。
 先ほどの少女とは違う、もっと、幼い少年。足下からこちらを見上げている。
「な、な…なんだ、貴様!」
 子供は、普通の子供がそうするように、首をかしげてこちらを見上げている。
「貴様まで、こ、この私をからかいおって!」
 こちらの言っている意味がよくわからないのか、きょとんとしている。その表情にようやくザムザの動悸が収まってきた。
「…なんだ、迷子か?」
 少し頷いたようだ。
「仕方ないな。こんな時間に外をうろつくからだ。まったく、この城はどうなってるんだか…」
 先ほどの少女のことと言い、悪い遊びが流行っているのかも知れない。
「ほら、行くぞ」
 少年の手を握ると、冷え切っていた。
「何だ、冷たい手だな。こんな夜に外を歩くからだぞ」
「……」
 少年はただ黙ってザムザを見上げるばかりだ。
「…ふん」
 ひとつ鼻を鳴らし、ザムザは少年の手をしっかり握って歩き出す。

「どうかされましたか?」
 見張りの青年は、ザムザが戻ってきたのを見つけて声をかけてきた。
「どうもこうもあるか。迷子だ、迷子」
「は?迷子ですか」
 怪訝な顔をする青年に、ランタンで足下の少年を示そうとして──そこに少年がいないことに気づく。しっかり手を握っていたはずだったが、どこではぐれたものか…。ただ、冷たい手の感触は、右手の中に残っていた。
「む、おかしいな」
 来た道を照らすも、誰もいない。
「はて…。3、4才くらいの小僧だったのだが」
「私は見ませんでしたが…」
「そうか。もし見かけたらちゃんと家まで送ってやれ。…それと小娘も見かけたのだが」
「見てません」
「ふむ…?変な遊びが子供の間で流行っているみたいだな。とにかく、見つけたらきつく叱って家に帰すように」
 言い残し、ザムザは引き返し、結局船着き場には寄らずに帰った。


「それは、シエラ様ではないですか?」
「シエラ?誰だ、それは」
「ザムザ殿は存ぜぬかもしれんな。カーン殿と共にネクロード退治を手伝っていただいた方だ」
「む…」
 ハウザーの言葉に、ザムザは眉をしかめる。その様子が嫌いなものを食卓に出された子供の表情そのままだったので、カーンはちょっと笑ってしまった。
 じろりと睨まれた。
「あ…失礼しました」
「ザムザ殿はティントで大怪我をして休まれていたのだったな」
 と、ハウザー。
「そうでしたか」
「ふん、私がおれば、あんな小娘に手を借りなくとも済んだのだがな…」
「はあ…」
「そう言うわけにはいくまい」
 生真面目に、しかしやや表情を和らげてハウザーが言い添えた。
「彼女の協力なくして、今回の勝利はあり得なかった」
 そうまじめに断言されて、ザムザも口答えする気が失せたようだ。
 ラッキイスタアに籍を置くようになって日の浅い2人だったが、ハウザーは妙にアッサリと軍になじんでしまった。そしてカーンはというと置いて行かれた感で、このどこか妙なやりとりにいまいちついて行き切れずにいた。
「しかし、するともう1人の少年は…一体」
「しらん。まったく人騒がせな」
「まあ、なにか危ないことがあるわけではないわけだし。朝になったら自分で帰れるでしょう」
「それもそうだな」
 そこでザムザはふうっと大きく息をついて、
「それにしても…今日は冷えるな」
 通路で出会ったという少年を思い出しているのか、右手にじっと視線を落とした。
「ジョギングでもするといい。暖まる」
「…気が向いたらな」
 そういって彼は腰を上げた。
「少し、奥で休んできて良いかな」
「ああ。ご苦労だったな」
「すまない」
 奥の部屋には、仮眠用のベッドが1つ置いてある。ドアが閉じるまで見送って、2人はお茶を入れ直した。
「まだ、体が本調子ではないのだろうな。無理はしない方が良い」
「?…ああ、先ほどおっしゃっていた」
「うむ。ティントがゾンビの大群におそわれた時に、ゾンビの群れに囲まれた部隊を脱出させようとして、無理矢理自分の隊を突入させたそうだ。幸い、被害は最小限で済んだようだが、自分が大やけどを負ったということだ」
「そうだったんですか…」
 ハウザーもカーンも、ザムザの炎の竜の紋章の効果を知らない。
「ナナミ殿はあまり好感を持っていないようだったが。2人が言い合っている様子からすると、なかなか誠実な青年に思えたな」
 それは俗に言うケンカ友達という奴なのでは。年の離れたナナミと大真面目にケンカをしている2人の様子を想像してみるカーン。
「はは、ユニークな方なんですね」
「そうとも言えるかもしれんな」
 ハウザーも、木訥に思えるが、話してみるとなかなか気さくな人柄のようだ。
「面白いのは確かじゃの」
「シエラ様!」
 見れば、詰め所の戸口にいつの間にか声の主が立っていた。
「わらわを見た時のあの顔といったらのう…。おんしらにもみせてやりたかったものじゃ」
「人が悪いですな」
「そうかえ?」
 ハウザーの言葉にも全く動じた様子はない。カーンの入れてきたお茶を口に含み、
「それにしても、ちと脅かしすぎたかと心配したんじゃが、元気そうじゃな。もっとあそんでやるのじゃったわ」
「けが人をからかうのは感心しませんよ」
「安心せい、儂にもそのくらいの分別はあるわ」
「ならいいんですがね…」
「今頃うなされておるかもしれんのう」
 すました顔で茶をすするシエラ。
「シエラ殿。シエラ殿は見かけましたかな」
「何をじゃ、ハウザー」
「少年です。3、4才くらいの幼い少年を、ザムザ殿が見かけたと言っていた」
 シエラは少し考えるような様子を見せたが、
「…いや、みかけんかったがの」
「そうですが」
「おおかた寝ぼけて歩いておったのではないか?」
「それは考えにくいが…」
「知らぬものは知らぬ」
 茶を飲み終わると、シエラは用が済んだとばかりにさっさと帰ってしまった。その後しばらくしてザムザも仮眠室から出てきたが、4つ目の茶碗を見ても何も言わなかった。

 結局、その後ハウザーとカーンの2人も城の中を見回ったが、その少年に出会うことはなかった。


 翌日、昼下がり。起き出してきた3人はそのままレストランで昼食を取っていた。
「では、私は軽く食後のジョギングでもしてくる。失礼する」
 そう言い残してハウザーが席を外すと、午後に特に用事のない2人はそのまま日当たりの良いテラスでだらだらと時間をつぶすことにしたようだ。
「ハウザーはああ言っていたが、どうにも解せん」
「何がです?」
 食後にジョギングは、確かに相性として良くはないだろう。
「あのシエラとかいう小娘が、一体何の役に立ったというのだ」
「へ?」
 なんというか、それはカーンの予想外の疑問提起だった。
「あの…、その、シエラ様は…月の紋章の正当な所有者で、吸血鬼の始祖といえる方なんで…すけど」
 カーンの言葉を、ザムザはしばらく反芻していたようだ。
「つまり…あの小娘も吸血鬼……」
「…です」
 明らかに何かの葛藤を一通り胸の内で済ませたらしいザムザは、最終的にフォークを取り落とすというリアクションでその衝撃を表現してみせた。
「落ちましたよ」
 落ちたのがテーブルの上だったので、拾い上げて渡してやった。渡す時にザムザの右手が少し触れた。
「…?ずいぶん冷たいですね」
「そうか?」
 本人はあまり頓着していないようだが、他にも気になることはあった。それにしても。
「それにしても…。じゃあネクロードとの対決のことなんか、全然ご存じないんですか?」
 明らかに痛いところをつかれた様で、苦い表情になるザムザ。
「…終わったことだろう」
「そりゃまあ…。確かにそうですね」
 苦笑してしまうカーン。
 確かに、ザムザの言っていることは正しい。もはやその一件は誰にとっても終わったことになってしまったのだ。
 そんな感慨に浸っていると、不機嫌そうな声がぼそりとカーンの耳に届いた。
「ん…すまん」
 どうやら、シエラのことは知らずとも、カーンの事情については思い当たったようだ。さっきまでの傲岸不遜な態度とうってかわっての控えめな謝罪に、無性に笑いがこみ上げてきた。それをかみころしつつ、
「いや、そうそう。終わったことですから。そういうトコロは是非見習いたいものです」
「そうか?なら好きにすると良い」
 それもまた予想外の返事だったので、つい吹き出したカーンはまたまた睨まれてしまった。


 しばらくレストランで過ごし、結局用事を理由にカーンも席を立った。レストランを出たカーンはそのまま船着き場に向かう。
 船着き場は賑やかだ。揚がった網の中で暴れる魚を次々に桶に放り込んでいる者達もいれば、大きな荷物を積んだ船が列を作って入り江に入ってきたりする。ござの上に並べてある干物の具合をわかりもしないのに眺めていると、声をかけられた。
「おう、なんか用かい、黒いの」
 まあ、黒いけれど。
「そいつはまだ干したばっかりだからな。もっていくんなら別のにしな」
 人なつこく笑って近くの干物をあさりはじめる大男を、カーンは慌てて止めた。
「あ、いや、そういうつもりじゃないんだ。ちょうど良い、旦那に聞こうか」
「何だい?おれっちは船のことしかわからねえよ」
「いや、いいんだ。ここいらの小屋でいつも夜は寝てるんですよね?」
「ああ、そうだよ」
「そうだなあ、たまに夜、外に出たりはしないですか?」
「そりゃあ、するさ」
「その時に、小さな男の子を見かけたとか、聞いたことはないですか?」
「ふうん?どうだろうな。おれっちは見たことないけどなあ」
「どうしたい、アマダ」
「おう、タイ・ホーじゃねえか」
 見ればこちらも、いかにもの漁師姿。
「なんだい、そっちの黒いのは。トレジャーハンターかい?」
 …そういえば、テラスに赤いコートのトレジャーハンターがいた。似ていると、いえなくもない服装かもしれない。
「いや、私は目下のところ失業中でして…」
「ふうん?そうかい。漁師にでもなろうってのかい」
「いや、何か調べものみたいだけどよ。なあ、旦那?」
「はあ、そうです…」
 ここまで話を持っていくのにどうしてこんなに疲れているんだろう。
 同じ質問をタイ・ホーという漁師にしてみる。
「ふうん…そうだな。聞いたことはあるかな。でも、見かけたとか、まあ、そのくらいの話だったかな」
「しかも、酒が入ってるんじゃねえのかい」
「まあね」
「詳しく聞けませんか?場所とか」
「まあいいけどよ。良くある話だぜ?」
 そう言って、タイ・ホーは笑った。


 寒さで目が覚めた。

 レストランの方に歩いてきてしまったのは、習慣以外の何者でもない。ザムザ自身少々呆れてしまう。
 通路はぼんやり明るい。片側一面の飾り窓から月明かりが差し込んでいるためだ。神秘的な光景だったが、どうにも胸騒ぎがする。
 その月明かりを全身で浴びて、少女が1人立っていた。
「どうした?このような時間に。寝れないのかえ?」
「き、貴様は…」
 昨日の今日では忘れようもない。シエラだ。
「貴様、またこのような時間に…」
「たわけが。吸血鬼が夜に寝て昼間外を出歩く道理がなかろうに」
「吸血鬼…」
 強気に出ようとしたザムザだったが、その単語には多少たじろいでしまう。
「そんなことより、じゃ。おんし、昨日の子供はみつかったのかえ?」
「!…貴様、あの小僧を見たのか?」
「わらわは見てはおらぬ」
 あからさまにガッカリするザムザ。シエラはいたずらっぽい笑みを小さな口にこっそり浮かべた。
「そうじゃ、これから探してみるかのう?」
「これから!?」
「そうじゃ。おんしも付き合うが良いぞ」
「なんだと!?」
 反射的に不満の声を上げるザムザの手を、シエラがさっと取り上げる。
「おや、ずいぶん冷たい手をしておるのじゃな」
 笑っている。何が可笑しいのか。そういう少女の手の方がよほど冷たい。月明かりに、血の気のない肌がいっそう白く映える。人でないものが自分に触れている、そんな言いようのない嫌悪感がザムザの全身を襲う。今にも掴まれた手を払いのけそうになるのを、弱みを見せたくない一心でこらえていた。
 そんなザムザの心の内を知ってか知らずしてか、シエラは伺うようにこちらを見上げて笑っている。
「どうした、行かないのか臆病者」
 そう言っていた。というよりむしろ、そう聞こえた。
「よかろう、怖いのならそうやって捕まっていると良いぞ。くれぐれも、はぐれんようにな!」
 自らシエラの手をつかみ返すと、ザムザは勢いよく歩き出した。


 1階、ホール。階段を挟んで、エレベーターの反対側にぽっかりと口を開けた通路。前に立つと風を感じるのは、デュナン湖につながっているためだろうか。
 通路の前に立つ、ザムザとシエラ。晴れているにも関わらず、その通路は昨日よりいっそう暗く感じた。
「…そういえば貴様、昨日は何だってあんなところにおったのだ」
「おんし、吸血鬼がどうやって睡眠を取るのかもしらぬのかえ?」
「……」
 黙ってしまうザムザ。おそらくは睡眠を取っている様子を想像しているのだろう。そしておそらくは納得のいく解答にたどり着いたようだ。
 一般に、吸血鬼は棺桶で寝る。この通路の先には、ちょうど棺桶の用意のある場所があるのだ。
「…おんし、その子供を見つけて、どうしようというのじゃ」
「決まっている。家に帰って大人しく寝ていると言う」
「そういうおんしは。部屋に戻って大人しくしていなくて良いのかえ?」
「ふん、おかしな事を。私のような立派な大人が、そのようなことをとやかく言われるいわれはない」
「大人も子供も関係ない。ちょっとした息抜きなど誰にだって必要な事じゃ。おんしがそうしているようにな」
「なんだと…?」
「そっとしておいてやれば良かったのじゃ。おんしとて、わらわが声をかけなんだら今頃は部屋に帰って大人しく寝ていたかもしれぬ」
 シエラの声が、どこか遠くから聞こえるような気がする。そんなはずはない。彼の右手には、未だにひんやりとした彼女の手の感触がある。そんなはずはない。
「私がいちいち貴様の指図などにたやすく左右されてここまでのこのこやってきたというのか?」
「違うのかえ?」
「たわけたことを抜かすな!」
 ザムザはほとんど怒鳴っていた。
「ほほほ、そうかえ」
 その笑い声は彼の前方から聞こえてきた。はっとランタンを掲げると、少し離れた位置に立ったシエラが笑っていた。右手の感触に、何かずっしりとしたものが加わった気がした。
「では、とくと言って聞かせるがよいぞ。わらわはここで聞いておるゆえ」
 彼女の視線は、ザムザの右脇、やや低い位置に。そこには、いつの間に入れ替わったものか、昨日の少年の姿。こちらを見上げている。
「いつの間に──」
 それだけ言うのがやっとだった。少年は昨夜と同じように小首をかしげている。その右手を、こちらに伸ばしてきた。
 ふと、シエラの存在が意識される。
「貴様、昨日…帰れと、言っただろう」
 少年はザムザの言葉を聞いていない風だ。ぎこちない動きでさまよう少年の右手を捕まえる。やはりこちらの手も冷い。
 見ろ、言っただろう。このような時間まで外をうろつくから、体がこんなに冷えて…。
「……?」
 なにか、じっとりとした感触。少年を捕まえた両手から、悪寒が全身を伝う。
 濡れていた。髪の毛も、服も。ザムザは混乱する。冷たい、重いものが全身にまとわりつく感触。目の前が暗くなっていく錯覚。遠くで聞こえる水音。少年の肌の感触が、生麩の様にどこかふやけたものになっているのに気づく。何が起こっているのか全く把握できず、嫌悪感すら置き去りに、少年の腕を振り払うことすら思いつかない。
 遠目には言うことを聞かない幼児に大人がものを言い聞かせているようにも見える。
 軽いめまいがした。それまで動かすことを忘れていた己の体から急に力が抜け、たまらず片膝をつく。
 すると、少年と同じ目の高さになる。思わず息をのんだ。
「…………」
 シエラが右手を振り上げた。稲妻が少年を撃つ。さらに次の瞬間、少年の全身を白い炎が包む。驚きの感覚はもはや麻痺していたが、熱さを感じないことは不思議だと感じた。
「しっかり言い聞かせるよういったであろう。たわけ者め」
「なんだと!」
 悪口にはきちんと反応するらしい。
「ほら、いい加減手を離したらどうですか」
 少年の向こう側の通路からカーンがひょっこり姿を現した。
 カーンの言葉に、ようやく我を取り戻し、そろそろと手を離す。少年はまだ白い炎をあげ続けている。ザムザを見つめたまま。
 その姿が揺らぎ出す。少年の口が、初めて動いた。
「なんだ?」
 声は聞こえない。必死に唇を読みとる。
 さむい。
 寒い。
 そう言い続けていた。やがてその姿が大きく崩れだした。
「お、おい!」
 とっさに少年の腕をつかみ、紋章を発動させる。手のひらから生まれた炎があっというまに少年を包み込み、そして炎が消えた後には何も残らなかった。
 そのまま、呆然と膝立ちになっていると。
「呆れた…こやつ、トドメをさしおった」
「……え?」
 振り向くと、唖然としたシエラが立ちつくしていた。
「そ、そういうわけでは」
 おろおろとカーンを振り向けば、カーンは「うわー」という表情でこれまた固まっている。
「おい、ちょっと待て、何か、何か間違ってるぞそれ」
 弁解しようと立ち上がろうとして、腰に力が入らないことに気づく。これは──ひょっとして。
 猛烈にパニック状態に陥ったザムザ。その耳に、シエラとカーンの会話。
「哀れな小僧じゃったの」
「これで安らかに眠ってくれるといいんですけどね──」
「人騒がせな──安易に声などかけおって──」
「──」
「──」
「…取り憑かれ──」
 その時ようやく、ザムザの頭の中で何かが明確な形を持ったのだった。そして。
「…ふん、見ろ、カーン。こやつ、騒ぐだけ騒いでようやく大人しくなったようじゃぞ」
「あ〜あ…」
 今更、失神。膝立ちの姿勢のまま。
 その姿に苦笑を漏らす2人。
「黙っておれば可愛いものよのう」
「自分で部屋に戻ってもらえると、もっと可愛いんですがねえ。シエラ様にも手伝っていただけますかね?」
「いやじゃ」
 キッパリ。
「はあ…」
 いかにも情けないため息をつき、ザムザを背負いながら、カーン。
「でもまあ、こう言ってしまうと不謹慎ですが、なかなか面白かったですかね」
「そうじゃな。馬鹿は馬鹿なりに上出来じゃ。ふふふ、見ものっだったぞ」
 機嫌の良く笑うシエラ。つられてカーンも笑った。


 目を開けると、朝だった。どういう訳か、それだけのことにひどく安心した。
 気持ちよく体を起こすと、ベッドの脇に、はかなげな少女が、優しくほほえんでいる。
「よく寝られたかえ?」
 …違った。
「──き、きき」
 貴様、と言いたいらしい。
「よく寝られたのかと聞いておろうに。まあ良いわ。気持ちよさそうに寝ておったからのう。聞くまでもなかったかの」
 ころころと軽やかな笑い声をあげて、大変気分が良いらしいシエラ。
 一方、ザムザは真っ青になって固まっている。わなわなと布団を握りしめた拳をふるわせつつ、必死の反撃。
「…き、貴様!吸血鬼がこんな時間に起きていて良いと思っているのか!」
「これしきのことでどうにかなるわけなかろう、このたわけが」
「ひ、非常識だー!!」
「朝から元気じゃのう」
「やかましいぞぉ…」
 これは同室のゲオルグ。それでも起きてこない。
「……」
 しまいにはふてくされる、ザムザ28才。
 そっぽをむいたその横顔をしばらく楽しげにのぞき込んでいたシエラだったが、そっとコップを差し出す。
「…なんだ、これは」
「昨日のご褒美じゃ」
 トニーの畑でとれた新鮮なトマトで作られた、トマトジュース。よく冷えているようだ。
 ザムザは差し出されたコップに手は出さずに、うさんくさそうに目で訊ねる。
「見事なとどめだったのう」
「帰れ」
「冗談じゃ。あの小僧もおんしには感謝しておったようだったのでな」
「…そうか」
「ほれ、そこにおる」
「な、なんだと!」
 がばっと腰を浮かすザムザ。…はっと気づきシエラを見ると、にこにこと微笑んでいる。
「……。ふん」
 照れ隠しに、トマトジュースを受け取って、口に含む。悔しいが、うまかった。
 そのまま、ゴクゴクとあっというまに飲み干してしまった。
 それを見届けて、シエラが席を立つ。欠伸をかみころしつつ、
「では、わらわはこれから一眠りするとしようかのう。おんしのおかげで、寝不足じゃ」
 くるりと身を翻し、ドアに向かうシエラ。その背中に向かって、
「とっとと寝てこい!」
「また散歩をする時はいつでもつきあってやるから、声をかけると良いぞ」
「いらん!二度とするか!」
 明らかにザムザに分がなかった。シエラの去ったドアを憮然と眺めていると、
「年上にもてるんだな。うらやましい」
 見ればいつの間にやらゲオルグが起き出していた。
「年上」
「だろ?」
「……」
 納得のいかない表情で口を閉ざし、トマトジュースの入っていたコップを投げつけようとして結局思いとどまり、
「……寝る」
 ザムザは今日一日ふて寝して過ごすことに決めた。



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昔書いたのはやたらと長い。
あとデルフィニア戦記ではルカナンが大好き。