ポメラの来た日 10

 その日、ザハークがレルカーに通うようになって、はじめてまともに、オロクから頼みごとをされた。


「頼むから、着替えてくれ」
「これに?」
 差し出されたのはオロク自身が普段着にしているパーカーとジーンズ。
 意図が分からず受け取ったものか躊躇していると、ぐいっと一式を押しつけて抱えさせた。
「ほら。あんたの仕事着で留守番されたらウチが近所から誤解されるからな」
「…これは、私の私服だが」
 ザハークが反論すると、オロクはちょっと困ったような顔をしたが、すぐに体勢を立て直したようだ。
「なんでこんな汚いところにくるのに、そんなスーツなんだよ、あんた。とにかくそれじゃ怖い事務所かと思われるから。着替えて。ちょっとだけ、留守番してくれ。頼むから」
「悪いなー。あんたにこんなことさせるのも厚かましいけど、まあ、頼んだわ」
 と、ヴォリガも両手をあわせるような仕草。そうして慌ただしく2人が出かけていくと、レルカーにはザハークしかいなくなったのだった。
「…この状況は、変だろう。いくらなんでも」
 急に静かになったレルカーの玄関。独り言に返事があるはずもなく。
 そこにいたってようやく、ザハークはオロクから、小言でもなく嫌みでもなく「頼みごと」をされたのだと気がついて、ちょっとした感動めいたものを覚えつつ胸に抱え込んだ衣服に目を落としたのだった。


 一応は素直に着替えをしたものの、全く着なれない服装のいたたまれなさに、何度も座りなおしたりしながら、気づけばザハークはつかのまの管理人気分を満喫していた。
 とはいえ、何をするかといえば、座敷でテレビをBGMがわりにポメラを開く、その位のこと。
「すみませーーーーん」
なんだか間延びした若い男の声。
「すみませーーん、ヴォリガのおっちゃーん」
 どうやらレルカーに用事のものらしい。ザハークは
 あわてて玄関に向かい、おそらく生まれて初めてつっかけを履いて戸を開ける。
「どなたかな。ヴォリガは今、留守にしているが」
 玄関口にいた青年は、見知らぬものが出てきたためだろう、きょとんとした表情で、ザハークを見つめ返す。急に、今の自分の服装が気になってきた。
 と。
「うわーー、かっこいいイケメンだ!」
 青年の方こそ今時のテレビに出てくるモデルみたいな整ったスタイルと顔であったが。
「…は?」
 いかにも軽薄な口調で面と向かってそういわれたザハークの、青年に対する印象はといえば、
(なんだ、このチャラチャラしたのは)
 と、実のところまったく好意的とは申しがたいものだった。
 いかに第一印象が宜しくなくとも、一時的とは言え留守を預かった身である。相手にしたくないからと無視するわけにもいかない。
「君はヴォリガの知り合いか」
「はい、親戚です。カイルっていいます、よろしくー」
 よろしく、と言われても。あまり人付き合いに関心のない方のザハークにとって、この青年のなれなれしさは苦手なことこの上ない。
「…ザハークだ」
 いちおう名乗り返すところは、律儀ではある。
「臨時の留守番役だ。ここの連中は出かけているぞ」
「そうなんですかー。じゃあ、中で待ってようかなあ」
 え、というとっさの反応を決して表情には出さなかったはずなのだが、どういうわけかカイルは目ざとく察したらしい。
「ん?ダメですか?」
「いや、好きにしたまえ」
 戸を開け、すこし体をずらして、カイルを中に入れてやる。
「はーい。お邪魔します」
 確かに何度も来たことがあるらしく、靴はちゃんと自分から下駄箱にしまったので、ザハークは胸をなで下ろす。2階の半自室にさっさと引きこもってしまいたいが、面識のない相手ということもあるし、留守番の立場としては、そういうわけにもいくまい。しぶしぶ、カイルについていく形で座敷に戻る。さっきまでのソワソワと落ち着かないくらいの高揚感が一転、まったく憂鬱である。
 カイルは、隅っこのマガジンラックに放り込まれている、オロクがなにを基準に購入しているのかよくわからない雑誌群の中から、フライフィッシングの専門誌を選び出した。それを机に広げて適当にめくり始める。
 留守番役らしく、とりあえず茶くらいはださなければと準備をしつつ、ザハークは雑誌をめくるカイルの様子がいささか気になる。
「君は釣りをするのか」
「え?いや、あんまりー。でも、ヴォリガのおっちゃんに、子供の頃に何回か連れていってもらったことはありますよ。こういう源流のほうの、人がこないところ。一時的にはまってただけかもしれないですけどねー。こういうとこ、2人でいったなあ」
 眺めているページに掲載されている写真は、だいぶ山深い、あまり人の立ち入りのなさそうな場所のようだった。
「そうか、知らなかったな」
 カイルのぶんのお茶を入れ、ついでに自分のぶんも入れ直して、ザハークも雑誌をのぞき込む。
「ザハークさんは、趣味とかあるんですか?」
「いや、別にないな」
「イケメンなのに、もったいないですよー」
「……」
 かみあわなさそうなところはなるべくスルーしておこう、と自分のなかで確認しておくザハーク。
(…趣味か)
 あえて挙げるとしたら、たまにレルカーにきてダラダすることくらいか。それもどうかと思い、胸中にしまっておくことにする。
「君はないのかな。趣味とか」
 会話の流れ的に聞き返してみた。
「えー俺ですか。あらたまって趣味、なんて言われるとわかんないかもです」
「……」
「…あったほうが良かったですか」
「別に」
 自分から話を振ったことを後悔。雑誌に視線を戻す。
 見開きに写真と図を使って、しかけの仕組みの説明、ねらいを付けるスポット、川の流れとポジショニング、道具の選び方。かなり密度の濃い内容が延々と紹介されている。意味は分からないながら、整理のついた読みやすい文章だった。
 と。
「ザハークさん、結構興味あるんじゃないですか?こういうの」
「は?」
「…すみません」
 何故か謝られた。
 ようやく自分が留守を預かっていることを思いだし、カイルが客であるらしいということも自分の中で再度確認。
「ああ、すまない。釣りは興味ないが、この文章を書いた者には興味があるな」
「へええ。…俺、写真とかしか見てなかったですけどねぇ」
「ふむ」
 カイルから雑誌を取り上げて、パラパラとめくる。渓流の風景、釣果の川魚たち、それらの写真は単純に見ているだけで美しい。
 それでいて、文章の密度も雑誌というには高い。本来の読み手達がこの文章を読んで渓流への思いをかき立てる様が想像できような、解説と叙述のさじ加減は、なかなか書けるものではないだろう。
 カイルに雑誌を返して、湯呑みが空なっているのに気がつき入れ直してやると、カイルはザハークのことをまじまじと見返してきたのだった。
 あえて放っておくか、尋ねるべきか。迷ったが、尋ねてみることにした。
「何かな」
「…あの」
 ここでカイルがようやく口を開くそぶりを見せたということは、おそらく彼自身も余計なことは言うべきでないというくらいは気遣いをしていたものと思われた。
「あの、ザハークさんてちょっと怖い人っぽい第一印象でしたけど、すごくまじめな人なんですねえー。なんか尊敬しちゃいますよ、ほんとー」
(…どうしてこう、言葉にいちいち重みがないんだろうか)
 いちおう誉めてくれているようなので曖昧に礼のようなことを口にしながら、精神的な疲労を禁じ得ないザハーク。
 彼の限界を察したかのようなタイミングで、玄関のベルが本来の管理人達の帰宅を告げた。
「戻ったぞー」
 玄関から座敷をのぞいて、ヴォリガはカイルを見つけて驚いた様子。
「なんだてめえ、来るなら来るって言やいいのに」
「あー、ヴォリガのおっさん!おとといメールしたでしょ」
「あー?メール?俺は携帯なんて持ち歩かねえって言ってんじゃねえか」
「それじゃ持ってる意味ないよ、おっちゃん」
「そんなもん、俺が使いたいときに使えればいいんだよ」
それから、ザハークに。
「悪かったな、相手してもらったみたいで」
 なんだか子供の相手をさせていたような言いぐさだ。…何だろうこの徒労感は。
「あんたの子供でも来てるのか?」
 言いながらオロクも座敷にやってきた。
「おいおい」
 ヴォリガ越しに、カイルを見つけ…なかったことにしようとしたところを、カイルは逃さなかった。
「お邪魔してますオロクさん」
「……ああ、どうも」
 あからさまに知らない人との距離感まるだしの返事。
「えー、ちょっと!俺、前にもあいさつしたじゃないですか」
「…たぶん忘れた」
「…お前なぁ」
 ヴォリガの呆れ顔を意に介さず、いかにもやる気なくカイルをやり過ごし、オロクはザハークのところにやってきた。
「あれの相手してたのか、ご苦労だったな」
 カイルとオロクを繰り返し眺めつつどう返したものか困っていると、オロクは特に返答を求めていなかったようで、ザハークの手元に視線を落とす。
「めずらしいな、あんたは雑誌なんてみないだろう」
「カイル君が見ていたのでね」
「ああ。あの軽薄なのが」
 ちらりと目をやると、拗ねたような顔のカイル。
 そして、カイルのほうを全く気にするそぶりもないオロクは、彼の抗議の目線も頑固に無視して、隣の机に出したままになっていたポメラをとじてこちらによこした。
「ホラ、ほかの連中が帰ってきたら壊されるぞ。しまっておけ」
「…ああ、ありがとう」
 返事を返すザハークにも関心が無くなったらしく、オロクは買い出しの荷物をヴォリガと奥の食堂へと運びにいってしまった。
「うわー、なんですか、それ」
 ザハークの手元の端末に、カイルは興味津々のようだったが。
「…カイル君。オロク君にも余計なことを言っただろう」
「へ?」
 ザハークの言葉の意味が、カイルにはよくわからないようだ。確信だか好奇心だかに押されるように、ザハークは重ねて尋ねる。
「…君は、彼のことをどのような人間だと思う」
「あぁ。…うーん、なんか、俺にはやたらと冷たいんですけど。でも、けっこう優しい人ですよねー」
「なるほど」
 …そんなことを、この軽薄な口調で、あの男に面と向かって言ったことは確実だった。
「君には恐れ入るな」
 半ば呆れ、半ば感心しつつ。ザハークが感想を漏らすと、カイルはきょとんとした。
 きょとんと見返されて、ザハークはさすがに苦笑してしまう。
「…君の子供じみた口調は感心せんがね」
 カイルは、その言葉に何か嫌な予感を覚えたらしい。
「ひょっとして、ザハークさんも俺に対しては冷たいクチですかぁ」
「口調」
 すかさず短く言い返すと、カイルはひどく情けない顔になった。
「…はぇあ〜。ザハーク殿はきびしいですねえ」
 殿、って。
(…それで口調に気をつけてるつもりなのか?)
「そうだっ、ザハーク殿っ。近いうちにおっちゃんにお願いして、みんないっしょに釣りに連れていってもらいましょうよー」
「…は?」
 困惑を通り越しひどい疲労感を覚えて、ザハークはフライフィッシングの専門誌を閉じる。
 今日の1日は、軽薄でマイペースな青年のせいで、このままポメラの出番は回ってくることはなさそうだ。