ポメラの来た日 5

 ベランダに出た彼は、こちらを振り向くとやたら晴れやかに笑った。
「何度みてもここからの眺めは良いな」
 妙なことを言うものだ。
 彼に倣って私もベランダに出ると、そこからの眺めと言えば、軽の乗用車が通るのがやっとで見通しの良くない小路、同じような大きさの民家の連なり。電柱。
「私はね、塀の高さが揃っているところが気に入っているのだ」
「…はあ」
 ぴんとこない情報を付け加えられて、そこに注視してみると、確かに並んだ民家の塀の高さはだいたい揃っているようだ。
「あー…その。猫だったら歩きやすそうですね」
 適当に相づちを打って、想像してみる。どちらかといえば重そうで薄汚れた貫禄のあるノラ猫が、ゆっくりゆっくりと塀の上を歩いていく――そんな情景が似合いそうな。
「ああ。なるほど。言われてみるとその通りだな」
 彼も納得したように頷いて、てらいなく笑う。
 それにしても、どうして塀に注目したのやら、不思議な人物であった。彼は人探しのついでに彼の弟がいるこのレルカーを訪ねてきたという。
「ザムザさんのおたずねの人たち、見つかると良いですね」
 私の言葉に、彼は何故か少し考えたようだった。
「オボロへの依頼はひとに頼まれただけで、私は見つからずとも良いと思っている。見つかればなお良いがな」
「そうなんですか」
「そのうち帰るというものを追いかけ回すのは、あまり私の趣味ではないからな」
 そうなんですか、と同じ言葉を繰り返そうとして、あまり適当な反応を返していると思われるのもどうかと、ちょっと言葉に詰まった。しかし彼は私の返事など構わぬそぶりでベランダから部屋の中へと戻っていった。
「しかし、狭い部屋だな」
 ベランダが気に入っていると言った同じ口で改まったようにそんなことを言う。私はちょっと笑ってしまった。このちょっとした取っつきにくさは、彼の弟にどこか共通するものであるようだった。
 彼は私を振り返りいぶかしむような表情になったが、
「遠慮しないで入ってきたらどうだ?自分の部屋だろう。おかしな奴だ」
 そんなことを、弟に輪をかけた尊大さを見せつけながら言ってみせる。
 そこへ、廊下から聞きなれた声が聞こえてきた。
「あいにく狭い部屋なので、あんたが邪魔で入れんのだ」
 普段に輪をかけて無愛想な彼の弟が立っていた。
「おお、そうか」
 ザムザは、己と部屋とを見比べて納得した様子で、これがまた彼の弟の腹に据えかねたようである。
「…おい、今この男をレルカーから追い出してくれたら感謝してやるぞ」
 私がその一風変わった言い回しの頼みごとが聞こえなかったフリをすると、さらに彼は私に言い募ろうとした。
 そこへ、我々の会話など聞いていなかったに違いない、彼の兄の声が割って入った。
「そうだ、オロク。これから夕飯の買い出しに行くから案内を頼む」
「あのな…」
 オロクが何か不満の言葉を口にするより早く、彼の兄はさっさときびすを返してしまい、すたすたと階段を下り始めていた。
「………。ばか兄貴め」
 私は初めて、彼が自分の意見を相手に伝えることを断念するところを目撃した。
 短いため息をついて、兄の後に続き階段へと向かう。
「ああ、ザハーク。留守番頼む」
 オロクが足を止めずにそう言い残すと、すぐに玄関の戸に括りつけられた鈴が可愛らしく戸の開閉を知らせ、それからレルカーは急に静かになってしまった。
 私は、先ほどからずっとベランダに立ち尽くしていたので、振り返って路地を見下ろした。果たして、すたすたと早足で歩く兄弟の姿があった。
 と、彼らの行く手、民家と民家の隙間から、のっそりと体格の良い野良が顔を出し、そのまま塀を歩きだした。兄の方が気づき、足を止めて野良をしばし眺める。弟の方は一瞬兄を置き去りにしてから足を止めてなにやら文句を言っているようだったが――それから2人は、ゆっくりと歩きだした。

 どういうわけか、狐に摘まれたような気分になって、私は静かになったレルカーの中へと戻る。いつの間にかこの狭い部屋も1人では広すぎるような気がしてしまう。だが、とりあえずはポメラがあればその広さも少しは紛れるだろう。



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ええ、まあ、ずっとやってみたかったことをやってみたわけですが。
とりあえず、2のザムザとオロクが兄弟だったら超最高!という妄想に基づく暴走がしばらく続きます。
ザムザを知らない方には済みません…。