ポメラの来た日 7

 オロクさんがようやっとダメージから復活して、突っ伏していた上体を起こすと、いかにもこちらに声をかけたものかという案配で、ルセリナが心配そうに伺っているのと目があった。
 なんてことだ。
 オロクはあわててドリンクのカップをゴミ箱につっこみ、店を出る。
 案の定、ルセリナの髪の毛や肩口は雨に打たれてしまっていた。
(柄でもないが、しかたあるまい)
 オロクは自分の羽織っていたジャケットをもたもたと脱いで、ルセリナにかけてやる。
「まったく、こんなところに突っ立っているバカがいるか」
「すみません」
「この店に用があるわけじゃないんだろう」
「はい」
「じゃあ、兄貴のウチに帰るところか」
「はい」
「他に用がないんなら途中まで一緒に行くか」
「はい」
 小降りになっているとはいえこれ以上濡れてはたまらないので、さっさとオロクは歩き出す。ルセリナも並んで歩く。
「あの、どうされたんですか?」
「なんでもない。頭痛が酷かったがもう治った」
「…大丈夫ですか?」
「原因は分かってるから問題ない」
 ルセリナは不思議そうにオロクを見返す。
 ああ、そういえば、彼女と自分には共通点があった。
「…いま、俺の兄がレルカーに来ているんだ」
「オロクさん、お兄さんがいらっしゃったんですね」
「まったく…子供じみた男で自信過剰で声がでかくで面倒ばかり起こしてろくでもない兄でね。昔から頭痛の種だよ」
「……」
「しかも押しが強くて、人の話は最後まで聞かないくせに超のつくおせっかいでバカみたいにお人好しなものだから、当たり前みたいな顔で人の世話を焼くわ、偉そうに的のはずれた説教をするわで振り回される。どう関わってもとにかく決定的にロクなことにならない迷惑この上ない反省のそぶりもない…」
 ぶつぶつと、ほとんど独り言の調子でぼやいていると、ルセリナの目にちょっと面白がるような気配。
「あら、オロクさんでも苦手な相手がいらっしゃるんですね」
(…ずいぶんな言われようだじゃないか)
 どちらかといえば、そのせりふは、オロク自身がまさしくいつの日かザムザに言ってやりたくて仕方がない。もっとも、無理だと思うけど。ため息を一つ。
「あんたがどう思ってるか知らないが、俺はもともと人付き合いなんて全くできんよ。レルカーの連中だって苦手に思って…」
 どういうわけか、ルセリナはクスクスと笑っている。
「?」
「たぶん私も、オロクさんやみなさんのことが"苦手"だと思いますよ」
「は?なんだ、それは」
 ルセリナの言わんとしていることはなんとなくわかるが、それは勘違いも甚だしいのではないだろうか。
「特に兄のことはとびきり苦手なんですよ。だって、あんまり大事にされるとどう接したらいいのか戸惑ってしまうじゃないですか」
「…そんなもんかね」
 そんなことを当たり前に人に話せるものかね。
 ここでふてくされるのはさすがに大人げがないというものだろう。
「あちらがどういうつもりだったにせよ、結局こちらが世話を焼く羽目になるんじゃあ割に合わないだろ。厄介だよ、まったく」
 いかにも忌々しい口調になってしまったのは仕方がない。どんなに文句を言っても言い足りないのも本当だし。
 だいたい、自分の語彙には文句くらいしか見あたらないのだから、これは仕方がない。
「確かにそうかもしれませんね」
 一方、それに返ってくる相づちの言葉は彼女が発するとまったく嫌みにならない。本当は異なる言語を話しているのではないかという気すらしてしまう。
「…あんたはまったく、たいしたもんだよ」
 負けを認めるようにそう呟く。
 分かれ道にさしかかっていた。オロクは右に折れて小狭い路地を行き、ルセリナは直進である。
 短く別れを告げて、オロクは路地を気だるい面もちで歩いていく。ああ、上着、と思いついたが、追いかける気力もなくて、惰性のまま路地を進む。
 ふと、行く手の路地から明るい声が聞こえてくるのに出会った。思い当たるところのある声。霧雨にひっそりと静まり返る路地に、彼女の声とーーもうひとつ、これまたよく通る声が混じり、オロクはさすがに逃げ出したくなった。
 そんな時に限って、気づいたときにはたいてい手遅れになっているものである。
「オロクさん、おそかったね!」
「うろうろせずにさっさと帰ってこんか、不良め」
「迎えにいこうと思ってたんだよ」
 ニケアにビニール傘を手渡され、だが開く間もないタイミングで、ザムザが手にしたタオルでオロクの頭を捕まえる。
(どうしろってんだ)
 傘を開くこともままならず、わしわしと無駄に力強く頭をかき回されて、オロクはほとほと弱りはててしまった。
「うわ、ザムザさん、オロクさんの髪の毛抜けちゃうよ」
 妙にせっぱ詰まった声でニケアが制止を促し、オロクはようやく解放されて傘を差す。
 頭にかけられたままのタオルに抜け毛がごっそりついていたら、この馬鹿を呪ってやる。無言のまま歩き出しながら、オロクはそんなことを考えていたが、ふと思いついて、
「わざわざすまなかったな」
 いちおう、それだけ言ってみた。
 ニケアは、おや、とオロクとザムザを見比べ。
 ザムザからは、
「うむ、恩に着ると良い」
 偉そうな返事が当たり前のように返ってきた。
「恩に着ようがないだろ、あと3メートルばかりで着くってのに」
「距離の問題ではないだろう、まったく、さもしい男だ」
 この距離で恩を売ってくる人物の方がよほどさもしいのではないかと思うのだが。
 言い返そうとしてザムザと目が合うと、口答えする気力がなんだか殺がれてしまって、オロクは沈黙してしまう。
 そんな彼の頭をタオル越しに軽くはたいて、ザムザは先に3メートル先のレルカーの門扉を押し開き、姿を消してしまった。
「ねえねえ、オロクさん。駅前にいたおっきい人、保父さんなんだって。それでね、何度か自転車のレースで一緒になったことがあるって」
 ニケアの、妙に達成感のある笑顔をじろりと見返すと、さらに疲労感が募る思いである。
「興味ないって言ってるだろ」
 返ってくる笑顔は、『いうとおもいました』とかそのような感想が見て取れ――また、ずしりと疲労が増す。
(…どうして、こう)
 なんだか本意でない、面倒くさい方向にばかり物事が転がっていくのか。人生のやり直しができたとしても、どの時点からやり直したらよいのか見当もつかないくらいだ。
 …とにかくレルカーに逃げ込むに限る。
 1歩、踏み出したそのとき。
「オロクさん、すみませんでした、上着…」
 ルセリナが息を切らしてこちらへと走ってくるのを背中越しに一瞬だけ確認。なんとも今日という日は最悪だ。
 オロクは思い切りよく駆けだすと、レルカーの中に逃げ込んでしまった。


 当然、残されたルセリナはぽかんと立ち尽くしてしまう。それを見かねたのか、ニケアが、はい、と手を差し出す。
上着、オロクさんに返すのね」
「…はい、お願いします」
「あと、これ、よかったら使って」
 ニケア自身の傘を差し出されて、ルセリナはちょっと迷ったが、素直に受け取ることにしたようだ。
「ありがとうございます。またお返しにあがります」
「うん、いつでもいいよ。気をつけてね」
 ルセリナを見送りながら、ニケアが考えていたことと言えば、この上着を返すときにオロクがまた相当にくさるだろうな、ということだった。
 今日一日でニケアは確信したことが1つ。
(ザムザさんがからむと、オロクさんはなんか、変にかわいらしい人になるなあ…)
 なるべくニヤニヤしないよう細心の注意をはらいながら、この上着をどうやって無難に返したらよいのかとあれこれ想像しながら、ニケアもレルカーへと戻るのだった。


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おしまい、ではあんまりかわいそうなのでザハーク追加。